人間、生きていると、心配は大なり小なり尽きることがない。
「心配」とは「心を配る」と書くが、心を配る相手は家族や友人、学校や職場、自身の将来であったりとさまざまだ。
心を配るとき、自分の手に負えないことになると、あれやこれやと想像が悪い方に膨らむばかりで途方に暮れることが多い。
本当に手に余ることならば、どんなに気をもんだところで、現実が変わるわけではなく、行き詰るのみだ。
手の容量は人によって違うが、人の手は、大小があっても余れば必ず溢れる。人間の手の容量はわずかなものだ。
だが神様の手は無尽蔵だ。
堂々巡りに気をもむだけならば、その思いを神様の手に預ければいい。
神様は目に見えないが、元はと言えば、人間には力がない。その人間は神様が下さった力で働けているだけなのだ。
だから、力の及ばぬことは、さらに神様のお働きを頂けばよい。
信心していてもいなくても、心配のタネは尽きることがない。けれども、日々その心配事に神様のお働きを頂いていけばラクチンだ。
「困った時の神頼み」というが、神様には心配すらお預けした上で、本気で頼み込んでいると、必ず道をつけていただけるのだから、ありがたい!(編集子)
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