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執筆者の写真金光教日本橋教会

今月のコラム(2022年10月)

「徳のないうちは心配する。神徳を受ければ心配はない」という。

いかなる時でも、「心配」ということがないのであれば、こんなにありがたいことはない。

しかしそれは、なかなかに難しいなと思う。

何事も神様にお頼み申してさせていただけば、何の問題もないし心配することはないと、いくら人から言われてみても、ついつい先の見えない事柄について、あれこれ妄想しては心配をしてしまう。

世間では「あの人は人徳があるよね」ということはしばしば耳にする。人柄が良く何事にも長けているうえ人望もあるから、周囲から信頼されている人のことをそう言う。それでも、人から見た徳はあったとしても、人間である限り心配は尽きないものだ。

「神徳」を受けるとは「神様を信じ切ることであり、神様から信頼される自分になる」ことではないかと思う。

そのためには、まず第一に、自分は己の力で「生きている」のではなく、天地の大恩恵、すなわち神様のお働きによって「生かされて生きている」のだと得心すること。・・・これが欠かせない。

その上で、神様にお頼み申した後は、先々のことは神様を信頼してお任せし、自分がすべきことを、常に神様とご一緒にさせていただくという心持ちで事に当たる。その思いと行動は神様に通じるから、自分の至らないところは神様が足して下さり、願い以上のお導き(おかげ)をいただけるのだ。

それが心配のない心持ちとなり、神様のお徳を身にいただく、ということなのだと実感している。

だが、その稽古は永遠に続く。(編集子)

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