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執筆者の写真金光教日本橋教会

今月のコラム(2023年5月)

人間の「悩み」「大きな苦しみ」「難儀」の半分以上、あるいは大半は、「未来」か「過去」のことによって起こっている。「現在」の激痛など、「現在」で苦しむ、ということもあるのだが、人の様子を見ていると、「現在」よりも「未来」と「過去」からの問題に苦しんでいることの方がよほど多いのではなかろうか。

それは何かというと、「未来」を思う時の不安、心配事であり、「過去」にあった喪失、失敗、過ちなどのことだ。

心配事は子供にもあるが、子供より大人になればなるほど大きくなりやすい。それだけ、将来のことを考え、想像できるまで脳が発達するからだ。

喪失感、後悔の念も、同様だ。過去を生きた時間は年を重ねるほど長くもなる。しかし、これは子供の頃に受けたショックなども、トラウマとなって、長引き、大きくもなる。

だが、これらはいずれも「未来」か、「過去」のこと、ではないだろうか。そしてそれは、リアルの目の前には無いことだ。ただ自分の頭の中だけにあるバーチャルな虚像でもある。今の今にあるリアルの現物ではない。

そして、この虚像によって、人間はしばしば本当に押しつぶされてしまう。これが実に大きな問題なのだ!

どうすればいい?

金光教祖は言った。「死ぬ用意をするな」と。

頭の中だけにある虚像によって、「私はもうダメだ」「私はもうすぐ死ぬのだ」「そうに違いない」という結論を作ってしまう。これが「死ぬ用意」だ。

目の前にある、「今の今」生かされて生きている、リアルの自分が確かにあるにも関わらずだ。リアルの自分を捨てて、バーチャルにしがみつき、「死ぬ用意」をしている。その結果、本当に何もできなくなって、死んでしまうのだ。

「死ぬ用意をするな。生きる用意をせよ」。これはバーチャルのとりこにならずに、今を生きよ、ということだ。

でもその「今」が地獄じゃないか!…本当にそうか?確かに地獄は今また起きるかもしれない。明日、今日のこれから、また始まるかもしれない。それでも、それはこれからという「未来」にあるかもしれないことで、頭の中だけに置いてある想像というバーチャルではないだろうか。

そのバーチャルのとりこにならぬために、子供たちはどうする?子供たちは怖くなったら家に帰り、親にしがみつく。それだけでしのぐ。そしてしのげる。解決もする。

その代わり、親がいなくなってしまったら大変だ。親代わりが必要だ。鍵は親だ!

大人だって同じこと。実の親は大人にとってはだんだん不十分になる。問題が実の親では解決できぬほど大きくなるからだ。

でもその大人にもまだ親がいる。それが天地の親、つまり神だ。

我々を、生きている間、ずーっと生かし続け、守り続けているその原動力。それが「生きた天地」だ。「生きた天地」は親のようなもの。神とも呼べばよい。神は親だ。

その不動の親に生かされていることを知らずに、すべては自分の力で解決するべきと思い込んでいるところに、迷路が始まる。

目に見えぬこの親にしがみつけばいい。任せておけばいいのだ。子供の時に、自分が実親にしていたように。親を疑うものではない。子供は親を信じ、親は必ず何としても良い解決を用意しようとする。そういう性分ではないか。

それでも、もしその親が、死んでしまったらどうする?その親はまず永遠に死なないのだが、それでもいつか死ぬかもと勝手に思うならば、その時は死なばもろともだ。きっと親は自分を抱きしめたまま死んでくれるだろう。

だからこそ「死んだら親とともに土になるのみ」と達観して、生きた親に任せるのだ。

そして「今」を生きよう。リアルの「今」を大切に、一つ一つ、一歩ずつ、今を全力で! (編集子B)

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