詳しくは言えないのですが、内容につき、ご本人の了解を得て概要をご紹介いたします。
先日の土曜日、夜になってある方からお電話があり、どうしても月曜日いっぱいまでに探し当てねばならぬ人がいるのだが、その行き先がわからず、大変困っているということでした。つまり見つかるよう教会側でも神様に御取次くださいというご依頼でした。
私からは、どこへ探しに行けばいいのかを思いつかせていただけるよう、神様にお願いしていきましょうと申しました。だがそう言う私は、その人とはどういう人なのか、どの辺りにいるはずの人なのかも全く知りません。もっとも聞いたところで何の役にも立たないでしょう。とにかく当事者たちの心に「こうしてみよう」という「お気付け」が頂ければ良いのです。共に祈念させていただきました。
そして、ありがたいことに、火曜日のお電話で、相手に出会えたというご報告を頂きました。
子供が親にものを頼むようなもの
早速神様に、「実にありがたいことでございました」と、心より御礼を申し上げました。と同時に、私が言うのはおかしなことでもありますが、祈るだけで、このようなことが起きてくるということは実に不可思議なことであると思いもします。
本来、教祖金光大神様は、どんな事でも分け隔てなく、一心に願えと導いておられます。「神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。信心してみかげのなき時は、これぞ不思議なることぞ」とまでおっしゃっておられます。
そのお言葉自体の意味はわかるにしても、どうしてそのようなことが起きてくるのかと思うと、私はいまだに、実に驚くばかりです。
あえて言うならば子供が親にものを頼むと、親は何としても最善の結果を用意しようと頑張ってくださるのと同じことのようです。親に頼んだら、何故応えてもらえるのか、ということにしても、実は、そういうものなのだ、というくらいしか言えないように思います。神様は親と同じなのですね。
いつ何があったのか?
さて、当事者の方は、さらにその翌日の水曜日に、お礼参拝に来られました。そして、共に喜び合い、今度はご一緒に神様に御礼を申し上げました。
次に私はそこまでの経緯をもう少し確かめたかったので、状況を詳しくお尋ねしました。
まず相手が見つかった場所へ行ってみようということになったのは何時ですかと。するとそれは日曜日の午前中だったと言われました。教会にお電話をくださってから半日後だったということになります。
では実際にその相手と確かに出会えたのはいつですかと尋ねると、それは月曜日の朝10時ごろだったとのことでした。そして、翌火曜日の朝ご報告のお電話をいただいたという流れでした。
気付いた時がすでにおかげ
それならば、神様の方では、こちらからのお願いに対して、いつの時点でこのおかげをくださろうと応じてくださったのでしょうか?そこもさらにお聞きしてみました。
それに対してご本人は、「月曜日の10時の時点」と回答されました。それは相手に実際に出会え、目的が成就した時刻でした。確かに本当に出会えるところまでたどり着かないと、今回のような喜びにはつながりません。
しかし、私の方では、「神様がこのおかげをくださろうとお働きを顕わしてくださった」のは、それより一日前、「日曜日の午前」だったと思いました。あの時すでに、「あっちに行ってみよう」という気になれたことが、神様のお働きを頂いてのことだったのではないでしょうか。
人間が何かに気が付くとか、思う、というところには、そもそも神様のお働きが欠かせません。死んだ人間や眠っている人間、起きていてもボーっとしている時には、物が目の前にあっても、気が付くということができません。「気付く」「思う」ということも、実は神様のとても大きなお働きです。
祈りと結果はリンクする
このように、一生懸命に祈った、その後、目の前に起きてきた事柄が願った通りであったとか、あるいは願った以上の喜びになったという体験をお持ちの方も多いのではないかと思います。
ただそれは果たして、祈ったから、そうなったのか?そうではなくて、確かに祈ったのだが、祈りとは関係なしに、そのような良い結果が出現したのか、あるいは結局自分の力で出来たのか、ここも常に大きなポイントだと思います。
もしこの「祈りと結果」がリンクしないのならば、最初から無駄なことはやめておいた方がいいのだと思います。「祈りと結果」は、ときどきリンクするかもしれないのでもなく、必ずリンクすることになっています。
だからこそ、神様が「願え」と口酸っぱく仰っているのではないでしょうか。ただしそれは「一心に」と。
結果はすぐに教えてください
余談ですが、私の方では、実際に相手と巡り会えた月曜日の朝10時の時点でも状況がどうなっているかは全く分かりませんでした。私自身が神様から状況を教えて頂けるほどになれればいいのですが、ただの凡人ですので、そこまでは遥かに及びません。でも成り行きは当然案じられました。結局翌日の火曜朝まで、思い出すたびに、神様に「どうーぞ」と祈念申し上げ続けておりました。
こういうことは、親子の間ではよくあることだろうと思います。私自身も、自分のことで、親にも他人様にも、するべき報告をせずに、いろいろとご迷惑をおかけしてきました。また過去だけではなく、今でも、お願い事をしておきながら、問題が解決しても、御礼やご報告をしていないということがよくあり、反省したり、心の中でお詫びしたりするのです。
反省するべき時に気が付きもせずにいることは、きっともっと多いのでしょう。
最終ゴールにたどりつけてこそ安心できるのですが、振り返ってみて、「お気付け」を頂いたところに先ず、大変大きなおかげを頂いていたことを再認識したいものです。そこも改めて喜び、神様への御礼をすぐに申し上げていけるようになると、神様もなおのこと張り合いを持たれることでしょう。 畑 淳
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