No.301 何故そこまでできたのか NIHONBASHI HOT LINE
- 金光教日本橋教会
- 13 分前
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昨年秋の大祭の教話を漸く文字にできました。亀有教会の末永邦子先生のお話でした。
金光教に無縁だったご家庭で、お父様がある日突然、金光教の信心を始められ、自らも高校卒業後、自発的に教会修行に入られました。その後正式に金光教教師となり、結婚もされてすぐ、亀有教会に入られました。癌になった亀有教会長・高松和子先生と娘で筋萎縮症の順子先生のお世話をする前提でした。それは師匠からのたった3分の電話で、「はい、わかりました」という引き受け方でした。
邦子先生が教会修行時代、身に付けられたことは、一言で言うと〔神様のお働き全てを尊ぶ〕ことだと思います。神様のおかげを受けるためには、神様のお働きを尊んでこそです。その御働きの中には、都合の良いことも悪いこともある。それらを全て尊びつつ、更に神様を頼んでいくところに、なお大きな御働きが生まれることを実践し実証されたのだと思うのです(その教話はこの下に掲示しておきます)。畑 淳
2024年10月27日(日曜日)金光教日本橋教会 生神金光大神大祭
教話「金光教がやってきた」
金光教亀有教会 末永 邦子 先生
文章布教によるおかげで
皆様初めまして。
おめでとうございます。
本日は金光教日本橋教会の生神金光大神大祭を皆様とともに拝ませていだき、参拝のおかげを頂きましたことを御礼申し上げます。
金光教は今、海外も含めて1,400ほど教会がございますが、私は多分、1,400のうちの半分もその教会名を覚えられないです。また、それぞれお教会には先生方がおられますけれども、どうしても自分が関わった先生の名前しか覚えられません。ですけども、おそらくこの日本橋教会の先生の名前をご存じないというお教会の先生は、少ないと思います。
金光教の中で、いわゆる文章布教の先駆者ですね。先代の畑愷先生は、もう本当にその生涯をかけて、生神金光大神様の生き様や、また、生神金光大神様のもとに馳せ参じられたたくさんの先生、お参りされた方々に関わる研究などをなさり、今を生きる私たちのために、この信心をみやすく(容易に)取り組めるように、教祖様に近づけるように、書物としてたくさん残してくださいました。薄いリーフレットのようなものも、いくつもございます。それこそ、ご晩年に出版された『平人なりとも』というご本は、金光教の教師ならば、すぐ手の届くところに、いつも置いておきたいような、本当に教科書的なご本でございます。
また、今の教会長先生のまとめられた、教祖様の「金光大神御覚書・お知らせ事覚え帳」の原文・口語訳対照本というものを、時系列にまとめてご本にしてくださいました。本当に、どれだけ大変だっただろうなと思います。それを、私たち末端の教師たちにも、ポンと頂いたのですが、本当にもったいない思いです。
私は、2年前に重度の身体障害者でありました亀有教会二代教会長高松順子先生のお世話が無くなってから、時間があるところで、『金光教教典』を書き写す取り組みを始めました。活字化された教典は、もちろんすばらしいものなのですけれども、書き写すこともだんだん面白くなってきました。『金光大神御覚書』の写真本も、映すようになりました。6年前ほどに出た教祖様の「御祈念帳」というものも、ノートに鉛筆でなのですけれど、書き写すようになりました。
やはり、畑先生の教科書的なご本でありますとか、今の教会長先生がまとめられたご本などを置いておくと、非常に取り組みやすいのです。それは、導いてくれるような、テキスト本のような感じになっているわけなのです。
こうして、お道にご縁いただいているわけですけども、マンネリ化しないで済む、新鮮でいつも新しい金光教に出会わせていただけるのが、このお道のありがたいことだなと思います。自分にも、もちろん師匠はおり、信心の師匠はあるのですが、さまざまな先生方が代々受け継いで、後に残る者が取り組みやすいように、もっと教祖様に近づけるようにというものを残してくださっております。ですから、本当にいつも新鮮なお水をいただくように、教えをいただくことができ、また生活の中でさまざま、金光様金光様と言いながら、毎日新鮮な生活をさせていただくことができております。今日は、そういうお教会に来させていただきました。
金光教がやってきた
そういうお教会で、今日は講題を「金光教がやってきた」というふうにさせていただきます。
私は、もと信者の子弟であります。信者と申しましても、私、小学生の頃に、それこそ金光教が家の中にやってきたのです。その当時は長崎県の佐世保に住んでおりました。小学2年生の時に、突然、父が物置きと化していた床の間を片付け、その前に正座をし、柏手を打って、御祈念をあげ始めました。それは、本当に、もうもう奇妙な光景を見るようなことでした。祖父母の家に行って、まず仏間を拝むというのは、日本人として普通の習慣としてありましたが、核家族でしたから、家の中で何か拝み事が始まるというのは、なかなか最初は受け入れきれませんでした。
しかも、父親というのが、いろいろと生きづらさを抱えている父でした。今は、転職というのが珍しくないですけど、私が子供の頃は、1つの会社に勤めたら、そこを勤め上げるというのが当たり前なことで、お店屋さんは、そのお店・家業を継ぐというのが至極当然の世の中でした。その父が、仕事は続かないのですけども、金光教だけは続けたのです。朝4時に起きて、40分ほど車で走ったところに、篤信者と呼ばれるような熱心な方が、朝の5時からお広前を開放して、ご祈念会を開いており、そこに欠かさず行くようになりました。仕事は続かないのですけれども、そのご祈念会だけは、毎朝行っておりました。
だからといって、生活がどうなったかというと、どうにもこうにもならないわけです。それでも、その信者さんのお宅ですとか、お教会(福岡県久留米市にある金光教合楽教会)でありますとかは、自分の経験したことがないような世界でした。靴を脱いで、広いお教会に上がると、迷路のように感じました。すると、やはり子供は、ご祈念などは出ないで、うろうろと教会を探検したり、遊び場にするような形で私も付いていくこともありました。
また、信者さんのお宅も、やっぱり立派なご神前で、朝5時から、きちっと髪の毛を整えて、服装を整えた大人の方たちが、静かにご祈念をされるというのは、やはり神気漂う雰囲気を子供ながらに感じ入るものがありました。それでも、そんな熱心に何か金光教ということを、具体的に分かっていたわけではありません。
その後、私が中学3年生の時に、一家は千葉県の成田市に移り住みました。
金光教のことを意識し始めたのは、高校生の時に、教会のお嬢様たちとちょっと文通を始めるきっかけでした。私1人に対して、あちらは大勢のご家族でしたので、お嬢様たち6‐7人から手紙が届きました。それは、中学生から小学6年生ぐらいの子たちなのです。そこには、自分たちのお祖父ちゃんである当時の親先生のお役に立ちたいとか、教祖様のお役に立ちたいとか、金光教をもっと広めたい、みたいなことが書いてあるわけです。
私は、本当に、どうしてこんな生き方ができるのかなと思いました。裏も表もないわけです。なかなか他のお友達関係にはないようなタイプの子たちばかりでしたので、当時の私にとっては、非常に新鮮でした。世の中は非常に華やかな時代でしたけれども、天安門の出来事ですとか、海外はいろいろな紛争が絶えない中で、私は金光教のお教会に、先々、何か導かれているような気がしたのです。
なんと積極的な神様だろうか
うちでは、高校を卒業したら家を出るというのがルールでしたので、兄と姉はきちっと資格を取って、社会で働いていました。
けれど、私は教会の方に入らせていただきたいと、親に申しました。すると、父親も喜びました。母は喜ばず、「ちゃんと社会に出なさい」と言っておりました。それでも、私の意思は固かったようで、高校の先生も「金光教という宗教ならいいんじゃないの」ということでした。
当時、私の叔父が脱サラして起業し、フランチャイズの居酒屋を何店舗か経営していました。私は、高校1年ぐらいから、その中の1店舗でどっぷりと働いていました。それは、母がちょっと心身の状態が悪く、家にいづらい時期がちょうど重なりまして、学校から帰ったらそのお手伝いといってアルバイト三昧の生活をしておりました。しかも、10代なのに、もう何か社員の方よりも頼られるようになっておりました。ですから、抜けるに抜けられないような状況が、高校卒業してから1年続いたのです。時代が良かったのもありますけど、もう完全に昼夜逆転で、まるでパズルのようにいろいろなことを考えながらお客さん商売やっていると、それだけ成果も出るのでした。
当時、友人で建築士を目指している子がいて、よく建築の専門雑誌を持っておりましたので、見せていただくのが楽しみでした。当時は、丹下健三さんの都庁ビルがまだ建築中でした。よく分からないくせに、それまでの建築の方が良かったねなんて話したりしてました。磯崎新さんとか、安藤忠雄さんのコンクリート打ちっぱなしのものとか、写真も綺麗で、その工法とかは何も分からないのですけども、その本だけは見るのがすごく楽しみでした。私は女性なのですが、ファッション誌とかは全く見ずに、結構厚みがあるその月刊誌だけは楽しみにしてました。バックナンバーも借りました。
その頃、住んでいた成田市には空港はありますけど、本当に何もない町で、まだ都市が整備されている途中のようなちっちゃな街のちっちゃな本屋さんにふっと入ってみたところ、『新建築』という雑誌がポンと置いてあったのです。この雑誌は、東京とか大きな書店でしか扱ってないらしいのですけども、それが置いてありました。そこで、あ、こんなちっちゃなとこに置いてあるんだと思って手に取ってパッと開いたら、開いたページ全面に、私が修行に行こうと思っていた金光教合楽教会がフルカラーで載っていたのです。もう血の気が引くような思いがしました。
大分の方の建築事務所が設計したもので、新しい納骨堂でした。「金光教がやってきた」と申しましたが、この時、金光教というのはなんと積極的な神様だろうかと思いました。ですから、もうそこから、引き止める叔父を振り払って、すぐ教会修行に入ることになりました。
その納骨堂は特にそんな奇抜な造りでもなく、普通の神社のような美しい仕上がりですけども、神様はその時の私に、もういい加減にしなさいと言わんばかりの方法を取られたなと思っております。
金光教は布教において振り売りをするなとおっしゃっていますから、もちろん駅に立ったりとかしませんが、私のことを願ってくれる親であり信心の仲間であり、また親先生や先生方の祈りというのは確実に神様への電波に乗っていると思います。それがこちらの覚悟がない時にも、働きとして目の前にお差し向けとして現れます。
そういう生き生きと生きている生神金光大神様ですから、来てくれというところに来てくださるのです。ですから金光教というのは、これから本当にどこまでも可能性がある宗教だと、私は日々ワクワクとしております。
亀有教会に行くことになる
その後、私が亀有教会に行くことになった経緯をお話します。この教会は、高松和子という先生が初代教会長となって、娘である順子先生とお二人で、30年前に布教をなさいました。日本橋教会とは103年の差があるまだ本当に新しい教会です。今から23年前ですけれども、70何歳になった初代教会長の高松和子先生が癌になられました。一方、順子先生は金光教学院で修行中の頃から筋萎縮症という難病にかかり、布教当初からもうご自分では全く動けないお体でした。
当時、私は結婚のおかげをいただいて6‐7ヶ月ぐらい経っていましたが、主人はご本部の教学研究所でまだ見習い中でした。学院を卒業して所員の先生方から、まだまだいろいろなことを手取り足取りで習っている状況でした。そこへ、金光の宿舎に合楽教会の教会長から直接電話がかかってきまして、高松先生が癌になったからお前たち行ってくれという全く想定外の電話があったのです。
私が教会の修行生だった頃は、教会家族の方々と結構近くでご用する機会が多く、教会長先生という上に立つ人はやはり本当に修行が大きいと思いました。もちろんその中でも金光様(教主)はもう朝から夕方まで本当に私たちのことを毎日毎日祈ってくださっております。金光教は上の方のご苦労が本当に多いです。それを見てきましたので、ノーとは絶対言えないわけですね。分かりましたと。2‐3分も話してないような電話で決まりました。
ただ、私はその時、懐妊のおかげを頂いておりましたし、やっと荷物もほどいたぐらいでした。一方、この時の話は癌になられた高松和子先生のこともさることながら、重度の身障者である高松順子先生のお世話もするということです。
私は修行生時代に、高松先生が亀有からお参りされた時に、女子の修行生で順子先生をお風呂に入れて差し上げようと計画をしました。大きなお風呂があるものですから、女の子たちを集めてお風呂に入れました。しかし、変な言い方ですけど、体が動かないというのは本当に動かないのです。少しでも支えられたり、片足だけでもちょっと立てるだけでも違うでしょう。けれど、もう本当に手足頭全体がだらんなわけです。
お風呂用の椅子を用意したのですけど、そんなものは使えない。とにかく最終的に8人ぐらいの女性でお風呂に入れる経験をしました。体が動かない方の世話に行く人は大変だなと本当に思っていたのです。大体教会での親族親戚筋になられる大坪の家のお子さんが誰か行かれるだろうなと思っていたのです。けれども、どういうことか、私たち夫婦が行くことになりました。
多面的に差し向けてくださる
ただ、やっぱり腹が決まりません。ならば金光様にお届けをすればいいのですけども、もう分かっているわけです。「難はみかげ」など、教えは山のようにたくさん聞いていて、もう頂いていくしかない。これが私の信心をびしばしと鍛えていただくための「お差し向け」なんだからと分かるわけです。けれども、ついていけない。
そして、出発がもう1週間前ぐらいの時でした。教学研究所の先生方がお別れ会を開いてくださいました。私もおいでということで、同席させていただきました。お開きになって帰りに、駐車場の車に戻っていく時に、ある先生がとことこと追いかけてこられて、呼び止められたのです。「邦ちゃんな。後継はな、下のお世話だからな」と一言言われたのです。
その一言が、もう効きましたね。靄(もや)がふわーっと晴れたのです。なぜか分かりませんけど、もう分かりましたって感じで。目の前の迷いみたいなものが、本当に一切晴れました。そして、意気揚々と金光を出発することができました。
教内のいろいろな読み物から、その言葉をくださった先生の在籍の教会について分かったことが、先生には認知症のおば様がいらして、家族みんなでそのおば様を介護されたのです。お子さんやお子さんのお友達まで巻き込んで、温かくです。
また、その教会の教会長先生という方は、私に言葉をかけてくださった先生のお父様です。そのお姉さんにあたる方がトイレットペーパーをお供えしたいと言われたそうです。それは、そのお姉様にとって、トイレットペーパーが一番大事なものだったということです。お手洗いを失敗してはいけない、という思いがあられたので、それを御大祭でお供えしてほしいとおっしゃったそうです。
それは神饌ですから、おそらく三方に乗せられたのでしょう。献饌でひらひらと舞う紙を、信者さんはどう見たか分かりません。が、姉にとっては、もうこれが最高のお供えなのです、というようなお話も読ませていただく機会があって、もう本当に大変感動しました。
亀有でのご用で、その先生ご家族、お教会に幾度となくどれだけ助けていただいたか分かりません。これも本当に、金光教との新たな出会いでした。
神様というのは一面的じゃない、本当に多面的に、私が立ち上がれないなら、立ち上がれるために一番適した方を差し向けてくださる。出会いをくださる。こういう生き生きとしたお道で、私は本当にいつまでも下っ端な人間なのですけども、それでもまあまあ、遍くお導きくださる神様を頂いております。
今、その先生は教学研究所の所長先生になられています。直接お礼を言ったことがないのですけども、大祭の時にはいつも前の方にお座りなので、後ろから「ありがとうございます」と、いつも拝ませていただいております。
本当に、それぞれの道、それぞれの人生があって、それぞれがそれぞれの神様、教祖様に出会いながら、お取次をいただきながら、信心生活を進めていけるのだと思います。私たちは、そういう本当に大きな天地の親神様を頂いている。出会った神様が、また違う神様だったらどうなっていただろうと思うくらい、本教のおかげで今があることを、本当に御礼申し上げる日々でございます。
来てくれというところに来てくださる
最後に、五代金光様がやってこられた話で終わらせてもらいます。(令和6年)7月21日に神上がられた五代金光様は、「世界の平和と人類の助かり」ということを常に願っておられました。8月29日に本葬がありまして、偲び草として、五代金光様がしたためられた天地書附が配られました。
私どもの教会は、とても小さなご神前で、天地書附も小さいです。ちょうどこの色紙が納まる大きさなのです。ですから、その色紙の天地書附は、教会広前にすぐに掲げさせていただきました。
そして、教会長と「この天地書附を差し替えてから、誰が最初にお参りされるかね」などと言っていたら、その翌日お参りされたのが何とインド人でした。インドのムンバイの方で、若い男女でした。「お祈りをさせてほしい」と。私は言葉が分かりませんけれど、おかげ様で、あちらは日本語をしっかり勉強されていました。教会という文字を見て、「お祈りをさせてほしい」と思って入られたみたいです。ヒンズー教の方です。
「どうぞ」と言うと、しばし綺麗な姿勢でお祈りをされました。そして、「また来ていいですか?」というので、「ああ、またどうぞ」と申しました。こちらはちっちゃなお教会ですから、まあもう来られないだろうと思いましたけど、それから幾度となくお見えになりました。
ある時、教会長が一緒に拝礼して、「天地書附をご祈念しましょう」と言うと、そのご祈念も「生神金光大神様」と、ちゃんとルビを読まれるのです。拝詞をあげられて、天地書附をインドの方が奉唱されていると思うと、もうそれだけで五代金光様が来てくださったと、感激いたしました。
私にとっては、五代金光様が金光様なものですが、本当に「来てくれというところに来てくださる」というお働きをいただいております。いろいろ悩みも聞かせていただいて、インドならではのことを悩み、「どうぞお願いします」というお願いもされる。本当に好青年と素晴らしい女性です。ささやかですけど、そうやってヒンズー教であり、金光教の人が和気藹々と話し合えるというのは、ありがたいことだなと思います。このことも、五代様のご信心の現れだと思います。
亀有教会は小さいですけども、こういう働きの中で、ご用を務めさせていただいております。拙い話でございましたけれども、足らないところは、毎朝、教会長先生がご祈念と感話を配信されています。こういう教会はないと思います。本当にすごいことです。「変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ。変人というは、直い(すぐい/まっすぐな)ことぞ」と言いますね。本当に裏表がない取り組みをされているお教会、金光教の中で先頭を切ってくださるようなお教会に、ご縁をいただかれている皆さんは、本当に幸せだと思います。
今日は、私もここに立たせていただきまして、もったいないことでございました。
本日は本当にありがとうございました。
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