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連帯活動…なぜ?

7月21日(土)、なかのZERO大ホールにおいて、金光教の首都圏布教130年記念東京集会が開かれました。

教祖金光大神様に始まる道が岡山へ伝わり、岡山の人が大阪へ伝え、大阪・京都の人が東京へ伝えたのがその始まりで、130年というのは、東京に道が伝わってから130年という歳月が過ぎた、ということです。そして最初は一人が伝えた道でしたが、現在の首都圏では、それが105教会になっている、ということです。しかしその伝道は、教団が人を「派遣」したのではありません。それぞれの地で助かった人が自ら志願して、いわば自主的に道開きをし人を助けて、拠点となって残ってきた、ということでした。 さて、冒頭の資料に掲げたように、これらの拠点は各地で「連合会」という連帯活動をしています。

金光教の布教の基本は、一人の人が人の悩みを聞いて、神と人との間を取次ぐという方法によって進められるので、連合体が「取次」をするわけではありません。ですから、救いを求める人にとって訪ねる先は連合会ではなく、「取次」をする信奉者という人であり、教会の先生であります。 にもかかわらず、教会同士は連合会を作り、連帯活動をしようとするのは何故でしょう。私には最初、その意義がよく呑み込めませんでした。

それを深く納得せしめたのは、近年よく語られるようになったネアンデルタール人とホモサピエンスの違いです。現在の人類はみなホモサピエンスという種類ですが、以前にはいくつもの種類の人類がいました。その一種類であるネアンデルタール人は、私たちホモサピエンスより、肉体的にも頭脳も、優れていたそうです。 だがしかし、優れている方のネアンデルタール人は絶滅し、ホモサピエンスが生き残りました。ここ数年、その理由が大きくクローズアップされているのです。 それはネアンデルタール人が連帯をあまり上達させなかったのに対して、ホモサピエンスは連帯を強くしていく術を身につけたからだといいます。連帯をすると一人が発明した石器を大勢の人が皆持てるようになります。一人が身につけた毛皮を縫うという方法をみなが真似できるようになります。 その結果、弱い者でも新しい石器で狩りをすることができ、寒さをよりしのげる皮の服を着ることができるようになり、生き残れる者の数も増やすことができるようになり、数が増えるとより強く大きな力を共同で発揮することができるようになっていったというのです。 私たち金光教の信奉者はどうでしょう。

最初はみな個々人の助かりが全てです。そしてまた教えにも「信心に連れがいるといえども、連れはいらぬぞ。ひとり信心なり。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいるが、みな逃げておるぞ」というのもあります。 これはこれで大切なのですが、一方で「世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ」という御教えの存在もよく見なおさなければならない現状になっています。 ネアンデルタールではなく、ホモサピエンスの智慧に学びつつ、記念集会を迎えました。

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