「付け焼き刃の信心は取れやすい」という。たしかに「困った時の神頼み」だけでは永続的な助かりにはつながらない。
日本人の神仏への向き合い方には、神社仏閣に出向いて願いを叶えてもらうために手を合わせ、おみくじを引いたり、御朱印集めをしたり、神聖な空気に癒されるスピリチュアルスポットに行く、というのが多い。それらは一方向の参拝であり、そこに神仏の教えや願いに耳を傾ける、ということとは縁遠い。
その点、お寺には僧侶がおり、キリスト教には神父・牧師がおり、そして金光教の教会には「取次者(教会の先生)」がいる。そこには教えや神仏の願いを聞き、また共に祈るという行ないがある。
その金光教の教会では取次者が、神様にあらためてこちらの思いや願いを届け、神様からの思いを伝えたりもされる。
こちらの願いが神様の意に沿わなかったり、今は時節でなかったり、願い以上に良い道筋があることもあるので、自分一人で祈るだけでなく、折々に取次を通して神様に心を向けることもとても大切なことなのだ。
人間は生まれてすぐ大人になるわけではなく、約20年という時間をかけて多くのことを学び、社会に貢献出来るよう成長していく。それと同じように、信心も教会には何度か参拝したからそれで出来た、ということではない。
付け焼き刃の参拝や信心では周囲の幸せどころか、自身の幸せ、喜びの人生になれるには程遠く、確かなおかげをいただく前に頓挫することもある。自身も成長出来ないままだ。
何十年信心していても神様から教えていただくことや、気付かされることは日々数多くある。信心は自らが本気で打ち込み、生死を超えた安心に至るまでの精進を日々続け、際限ないおかげの世界に身を置かせていただかねばもったいないと感じている(編集子)。
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