世間の人は、神社仏閣に参拝すると、お守り札やお守り袋を買うことがある。
そこに宿った神仏に守ってもらいたいという思いと、それを身に付けたり家に置いておくことで安心出来るからだろう。
困ったことがあった時には、それらに向かって、必死に祈ることもあるだろう。
金光教には「お守り札やお守り袋」はない。
天地の親神様は世界中、どこにでもおられるから、それらに収まりきれるものではないし、それが無くとも、どこでも、いつでも、自分の心の中で祈れるからだ。
お札やお守りがあったほうが拝む目当てがあって安心かもしれないが、四六時中それらを持ち続けることは難しいだろう。
困った場面に直面した時、それらの置場を探すよりも、必死に目には見えない天地の親神様に心を向け祈ることで、聞き届けていただける。
だから壁に向かって祈ってもおかげはいただける。
大切なのは、神様に自分が包まれていると思うかどうか、その思いが真一心であるかどうかだ。
その思いさえあれば、どこにいても、どんな状況であっても、祈り、願う心は間違いなく神様に届くし、自分ではどうにもならないことであっても、必ず道は開いていく。
「お札やお守り」があると、神様を小さなもの、一か所にあるものにしてしまい、却っておかげを受けにくくしてしまうのだ。(編集子)
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