自分は何のために生かされているのだろう?と思う時がある。
生まれ育った環境から、生きる場所や役目などの大枠は漠然と定められているのかもしれないが、違った生き方や、想像もしないような人生を送る者もいる。
幼い時から無意識のうちに興味を抱く事柄があり、それを探求し続ける環境下にあると、気付いたら若いうちにある程度の成果を出し、さらに精進し続けることで、その道のプロになっていた、という者もいる。
一方、大人になっても自分の役目に気付けず、生き方に満足出来なかったり、漠然とした不安に苛まれ、悶々とした日々を過ごす者もいる。
それを他人に向ければ、聞かされたほうは決して良い気分はしないだろう。
だが、そんな鬱屈した気持ちを神様に申し上げ、抱えていた心の荷物を下ろすと、気持ちが軽くなるうえ、自分が何に悩み、不安を感じているのか?ということが見えてくる。
神様に聞いてもらい、今後の道筋を付けていただけるよう、自分の出来ることに日々精いっぱい励みつつ、願っていくことが大切なのだ。
年月を重ね精進してきた事柄は、未来において花咲かせることが出来る。それは、それまでの自身の努力の賜物ではあるが、そこに神様のお守り、お力をいただいていなければ、花は決して咲くことがない。
自分の頭で考え行動し、努力し続けることは立派だが、自分の考えの及ばないことや、手に負えないことは、自分の力ではどうすることも出来ない。
そもそも、自分の力で何でも出来ているように見えて、実のところ、自身の心身の働きはままならぬものであり、事前に神様から思い通りに動けるお働き、お力をいただいているから出来ているのだが、案外そのことに気付いていないお互いだ。
未来においてそれぞれの成果を生み出すことが人の生きる価値であるならば、それに向けひたすら精進していくのみだが、その最中には、常に神様を中心に据え、祈り、願い続けながら進めることによって、より確かに、大輪の花を咲かせていただける。(編集子)
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