今月のコラム(2025年10月)
- 金光教日本橋教会
- 9月30日
- 読了時間: 3分
天地は生き通しである。天地が生きているから、人間もみな生きていられるのである。
朝起きて窓を開けた時、青空が広がっていると気分が晴れ晴れする。雲っていると少しトーンダウン気味に、雨が降っていると悲しい気分になる…なんてことはないだろうか。人の気持ちは天気に左右されがちだ。
学校や職場などで、朝会った時に「おはよう!」と挨拶した後「今日は良い天気だね」「今日は雨でうんざりだね」「今日は暑すぎ~!」「寒くて凍えそうだよ」といった会話になりがちだ。天気は会話の種でもあり、そこから会話が広がり、コミュニケーションを円滑にする要素でもある。
日々の天候は生まれた時からあるので、これが天地の働きであることに気付きにくいかもしれない。だが、良く考えてみると…晴れ、雨、曇り、雪、風…といった自然現象が無かったらどうなるだろう?
太陽の照らしがあるから植物は光合成が出来、そこから排出される酸素のおかげで、人間も動物も息をすることが出来ている。雲って雨が降らなければ、全ての生物が生きる源を絶たれる。暑い日、寒い日があるから、作物も育ち、豊かな実りをもたらしてくれる。
そしてこの地上にはいずこにも大小の生命が満ち溢れている。実に霊妙不可思議なことだ。
今手元にある家、食物、服、家電製品、ノートや鉛筆、ぬいぐるみ、スマホ、ゲーム機…といった多種多様な物の原材料は、全て天地の働きの中から生じたものばかりだ。ということは、天地の働き無くしては、私達は一日たりとも生きられないことは明白だ。
個々の生物が生きていられるのは、そもそも天地という親が生きているからだ。死んだ天地に個々の生物だけが生きていることはできない。そして私たちは自分の魂ですら、天地という親から分けてもらっている。
「天地が生きている」ことを私たちはほぼ知らないでいる。
たまに自然現象で地震や落雷、突風、水害といった被害に遭うことがある。これも全て生きた天地の働きの一部だ。それを私達は「被害」と、まるで悪者呼ばわりしているが、自然の働きは人間にとって「害」になることもあるかもしれないが、そもそもそれが無ければ、私達は生きてはいけないし、それとて「たまに」のことだ。
地球温暖化が叫ばれて久しいが、そのせいで地球の温度は年を追うごとに上がり続け、春と秋は短く、厳しい暑さ、寒さの日々が増えている。それとて人類が便利な生活を追い求め続けた結果起きたことであることには気付かないフリをしている。
日々の天気、自然の働きに文句を言う前に、その働きのおかげで生かされていることに気付き、感謝の気持ちと共に、生きた天地に受け入れられ、喜んでもらえる生活を送っていきたいと思っている。(編集子)
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