今月のコラム(2026年6月)
- 金光教日本橋教会
- 5月31日
- 読了時間: 2分
目先の欲を放して、先々の徳をいただけ
生きていると「自分ばかりが損をして、他人ばかりが良い目に遭っている」ように思うことがある。
人間の根本的欲求は、自分の命を養い生き続けることにある。それを満たすために、子供の頃は学校に通い学びを得て、なりたい職業に就いたり、そうではなくとも何がしかの仕事に就いて給与を得ることで、その欲求を満たすことになる。
その過程では自分の力で到底解決出来ないようなトラブルに見舞われることも多々あるし、人間関係に悩んだり、思い描いていた未来とは違うことに絶望したり…と、理想や想像だけでは越えられない、いくつもの壁にぶち当たることになる。
いわば自分にとって不遇と思える時には、やたらと周囲がまぶしく見えて、自分だけが苦労を強いられていると思いがちで、気付けば他人に嫉妬していた…ということもあるだろう。その思いは「あの人だけが得をして、自分は損をしている」という感情だ。
そんな思いが湧いた時、妬みをバネにして他者を貶(おとし)める方向に向かうのか、その人のように輝ける生き方が出来るよう、今ある環境の中で精一杯務めを果たす方向へ向かおうとするのか?その選択によって未来は大きく変わる。
前者を選択すれば自身が苦しみ続けるだけで、永遠に負のループから抜け出すことは出来ない、つまりは心が満たされることはにならない。後者を選べば、その時々は苦しいかもしれないが、気付けばそれが成果の連鎖に繋がっていく。
目の前の出来事は損ばかりしていることがあったとしても、苦しい現状の解決を神様にお頼みしながら、腐ることなく未来を楽しみに、今出来る精いっぱいの努力を惜しまないこと、それが神様のお徳を頂き先の幸せに繋がるとは案外知られていないことだと思う。
目先の欲に執着せず、神様を頼みながら目の前の事柄と真摯に向き合い続けると、神様とタッグを組むこととなり、後から振り返った時、想像以上に得たものは大きかったと気付くし、大成した時の喜びはひとしおだ。
目先の欲にかられ、自分で手にしたものには神様の手がかかっていないから、あっさりと手放す羽目になる。
先人は「損をして得を取れ」とも言っていたが、人生とは損の連続を経験すればするほど、未来には本当の意味での得へ向かうよう促されているようなものだ。それは神徳という、神様との絆を強くし、神様のご信用を重ねておくことのように思う。(編集子)





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