金光教では「今月今日で一心に頼め」「神は頼まれるのが役である」と教えられます。
しかしどういうわけか、かつての私には、「頼みたくない私」というものがありました。
大阪の学生寮にいた頃、原付バイクに乗り始めて1ヶ月。交通事故に遭ったのですが、暫くの間、親には黙っていました。親に「余計な」心配をかけたくない、怪我が治ってからちょっと伝えるかな、と思っていたのです。また親に言ったところで、怪我が治るわけではないし、とも思いました。
神様に対しても同じことを思っていました。神様に言ったところで、怪我が治るわけではないし。自分で治すよ、自然に治るよ、と。
だが実態はどうでしょう。怪我を治す力が自分にはあるのか?自然に治るのは当然なのか?…実は治るお働きを頂いているからこそ治ったわけで、それを知らないから、「頼みたくない」などと平気で言っておれたわけです。
親も神様も、平時不時にかかわらず「頼まざるを得ない」自分がそこにありました。 畑 淳
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